天狗兄妹
2009/03/05

「おにいちゃん、まいこねえ、てんぐにあったよー」
 あのときアタシは天狗と遭遇した喜びを押さえ切れなくて、家に帰るなりすぐ兄に報告した。きっとアタシはその瞳をキラキラ輝かせて、兄にはまるで天使のように見えたに違いない。と自分で言う。
「そうかあ。舞子も会ったのか天狗に。どんな天狗だった?」
 兄は一片の疑いも持たない様子で、真っ直ぐアタシに向き合いそう訊いてきた。
「うんとねー、あかくて、はながながくて、おっきくて、はねがあった!」
「そうか! それはもう天狗に間違いないな! すごいぞ舞子!」
 兄に認められたことで、自分が出会ったのは本当に天狗だったのだと確信したアタシは、大喜びで飛び跳ねた。比喩でなく飛び跳ねた。飛び跳ねまくった。だって天狗に会ったんだもん! 知らない内に神通力を与えられていて、自分も天狗のように飛ぶことができるかもしれないとか思っちゃったんだもん! 実際には当然、飛行能力なんて身についていなかったけど、でも滞空力が心なしか増したような気がしていたのは事実だ。気のせいだけど。
 それからしばらくして、兄は失踪した。
 幼いアタシは、兄はきっと天狗に連れ去られてしまったのだろうと思っていた。だけど、最近こう思う。もしかしたら、兄自身が天狗になってしまったのではないかと。もちろん、自惚れているという意味の慣用表現ではなく。
 兄にとって天狗はヒーローだった。
 アタシが覚えている限りでは、兄は学校へ行くとき以外いつも下駄を履いていた。本当は常に下駄装備でいたかったようだけど、それはさすがにお母さんに止められていた。どこかの妖怪少年のように、兄は下駄をカランコロンと鳴らす。アタシはその音を聞くと、不思議に心が安らいだ。兄がなんだか神聖な存在のように思えた。
 兄が天狗を英雄視するようになった発端はなんだったのだろう。今となっては本人に直接訊くことはできないが、ひとつだけ、お母さんから教えてもらったことがある。兄は小さい頃、「だるまちゃんとてんぐちゃん」という絵本が好きだったそうだ。この絵本で、だるまちゃんがてんぐちゃんの持つ帽子や団扇を欲しがるように、幼い兄もまた、天狗の得物に魅かれていたのだろう。そしてついには、自分自身が天狗になった――のかもしれない。
 兄は下駄以外の物を手に入れられたのだろうか。帽子や団扇、そして大きな翼と長い鼻を。
 アタシにとって兄はヒーローだった。天狗よりも上の地位にいた。

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