外道物語
2013/09/15

 始まりは神代の物語。
 出雲国いづものくに斐伊川ひいかわ上流で、ある老夫婦の娘たちが七年に渡って殺されていた。夫婦には八人の娘がいたが、年に一度一人ずつ、恐ろしい怪物によって無惨にも喰われていたのである。その怪物――八岐大蛇ヤマタノオロチは、八つの頭と尾、そして鬼灯のように赤く燃える目を持ち、背中には松や柏の木が生え、八つの丘、八つの谷にまたがる程に巨大であった。夫婦には、それに対抗するいかなる手段もあろうはずがなく、ついに八年目の今日、残された最後の娘、奇稲田姫クシナダヒメもまた、オロチの餌食となってしまうのである。
 悲しみに暮れ、泣きじゃくる老夫婦と娘の前に、一柱の神が降り立った。その名は素戔嗚尊スサノオノミコト。神国・高天原たかまがはらを追放された荒ぶる神である。
 スサノオは、クシナダを妻として貰い受けることを条件に、オロチ退治を請け負った。
 果たしてオロチが現れると、蛇神はその八つの頭それぞれで、スサノオの用意した酒を飲み干した挙句、酔ってそのまま眠ってしまった。すかさずスサノオは、手にした十握剣とつかのつるぎを抜き、オロチの身を斬り刻む。
 こうしてスサノオはクシナダの命を救い、晴れて二人は結ばれることとなった。
 しかし、恐るべきは大蛇の生命力。オロチは生きていた。息も絶え絶えにはるか東、近江国おうみのくに伊吹山いぶきやまへと逃げ落ちたのである。そしてオロチは丁重に祀られ、かの地を守護する神となった。

 時は過ぎ、時代の主役は神から人へと代わる。
 聖武天皇の御代、伊吹山の麓の村で、一人の女が子を産んだ。その子の胎内に留まること三十三ヶ月、とても尋常の月日ではない。出生から既に人の道を外れていたその子こそが、この物語の主役、幼名を外道丸という。はるか昔、伊吹山の守り神となったヤマタノオロチは、人の女との間に子をもうけていた。外道丸はその直系子孫である。
 外道丸は、「鬼っ子」と恐れられ、蔑まれた。生まれながらにして歯も髪も生え揃い、二日も経てばその足で歩き、四日目にはある程度の言葉を話し始めたという。また、その気性は荒く、ありとあらゆる物を壊し、周囲の人々を傷つけた。鬼呼ばわりされるのも当然のことで、親の手にすら余るのも時間の問題だった。
 そしてついに、外道丸が四つになったその年、彼は伊吹山の山奥に捨てられた。既に外道丸は、体力においても知力においても、大人のそれと遜色ないほどに成長していた。人里で、周りに合わせた生き方などもはや望めない彼にとって、山の中で一人伸び伸びと過ごす方が性に合っていたし、また幸せだったに違いない。彼の荒々しさは、山での生活の中で自然となりを潜めていった。それは、地面で激しくのたうつ魚が、水を得て悠々と泳ぎだす様にも似ていた。
 外道丸は自由だった。好きな時間に起き、腹が減ったら動物を狩り、季節の風を感じ、夜は星を眺めながら眠りに就いた。話し相手もいた。この山の守護神・伊吹大明神である。伊吹神は時折、人の姿を借りて外道丸の前に現れた。最初こそ拒否反応を示し、目の前の人物を傷つけようとした外道丸であったが、やがて相手を受け入れるようになった。その人物の目が、村の誰とも違うように感じられたからだ。実の親であっても、自分を見つめるその目に浮んでいたものは、愛情や慈しみを覆い尽くすほどの恐怖と哀れみであった。外道丸はその人物の目に、今まで知ることのなかった暖かな光を感じたのだ。その伊吹神こそが自分のご先祖様であるという事実など、外道丸に知れようはずもないが、伊吹神は密かに己の子孫の成長を見守っていたのである。
 それから八年の歳月が過ぎた。
 伊吹大明神の庇護の下、外道丸はすくすくと健康に育った。暴力を振るうこともなくなり、最低限の礼儀も教わった。人並の暮らしからの逸脱が、彼の人間らしさを取り戻すことになろうとは皮肉な話である。
 成長した外道丸は、絶世の美少年でもあった。「山には鬼が出る」という理由で、里の人間は伊吹山の奥にまで分け入って来ることはないが、ある日偶然にも、山の麓まで足を延ばした外道丸と、山菜を取りに来た若い娘が鉢合わせた。鬼だ、と娘は驚き一目散に逃げ出したが、その鬼の顔の見目麗しさがまぶたに焼き付き、離れない。娘は大人たちには何も言わず、同年代の女たちにその話を耳打った。そして里では密かに、「山に棲む美しい男の子の話」が広がったのであった。
 後日、外道丸は木の枝に紙が結ばれているのを見つけた。この紙は、里の娘が外道丸に宛てた恋文であった。娘は、外道丸になんとしてもこの手紙を見つけてもらうため、また、里の大人たちには決して見つからないように、できるだけ山奥に入って行き、目に付いた大木の枝にこれを結びつけたのだった。かくして、外道丸の手に渡った恋文であったが、彼は字が読めなかった。持ち帰り、伊吹神にその手紙を読んでもらったものの、その文面に込められた娘の切ない胸の内は、外道丸に理解できるものではなかった。
 同じようなことが何度も続いた。手紙がなくなっているのを確認した娘は、相手がそれを読んでくれたと思い込み、続けてまた恋文を書いた。そして、いつか返事が来ることを期待して、何度も何度も、書いては結び、書いては結び、その都度手紙が枝から消えているのを見ては喜んだ。ここであの男の子と会えるかもしれない、という希望もあった。
 だが、いつまで経っても返事は来なかった。外道丸はもはや手紙を読んですらいなかったのだ。始めの三、四通こそ律儀にその内容を読んでもらっていたが、やがていつも似たようなことしか書いていないと分かると、彼はその手紙を火にくべ燃やしてしまっていた。
 いつしか、娘は恋煩いのために食事も喉を通らないようになってしまった。体は痩せ、体力は衰え、両親は心配したが、まさか鬼の子に恋をしているなどとは口が裂けても言えやしない。寝ても覚めても、目に浮ぶのは山で一目会ったあの人ばかり。自分の想いはちゃんと伝わっているのだろうか、どうして返事をくれないのだろうか、会いたい、会いたい。娘は日に十通も恋文を書いた。なんとしてでも、絶対に、確実に、私の想いを確実にあの人に伝えてやる。その恋は既に執念であった。娘は書き溜めた何十通もの恋文を抱え、いつもの木の下までやって来た。そして持ってきた全ての手紙を枝に結び付け終えると、草陰に身を潜めた。意中の人物が現れるまで、ここで待つ腹積もりである。
 待つこと三日、飢えと渇きと疲れが娘を襲った。体力は限界を超えていた。いや、始めからその身は既にぼろぼろなのだ。娘は、報われぬ恋の果てに死を覚悟した。
 やがて、外道丸が現れた。大木の枝に無数の紙が結ばれているのを見て、彼はいつも以上の怒りを覚えた。この木は、伊吹山の中でも特に長い年月を経た木であった。外道丸の生まれるはるか昔より生きてきた木であった。彼も、伊吹山の神も、この木をとても大事にしていた。ある日、この木の枝に結ばれた紙切れを見つけた外道丸は、腹立たしく思いながらそれを取り外したが、気付けばいつの間にかまた紙が結ばれていた。外道丸にとってみれば、それはこの木に対する侮辱と、自分に対する嫌がらせ以外の何物でもなかったのだ。それが今日は、こんなにも大量に結び付けられているのである。彼は娘の恋文を外しては破いた。そして木を元の通りの綺麗な姿にした後、破り捨てた大量の紙切れを抱えて去って行った。
 草陰から外道丸の行いの全てを見ていた娘は、ひっそりと、足音も立てずにその後を追った。山奥の道なき道を進む外道丸の尾行、しかも相手に自分の存在を知られないようについて行くのは至難の業であったはずだが、思いのほか難なく進むことができた。そのまま行くと、開けた一角に出た。外道丸はそこに紙切れの束を置き、石を打ち始める。火を起こす。
 娘はそれをじっと見つめていた。千々に破れたごみ屑の山、手際良く火種を作る彼の手、燃える炎が照らす彼の顔、灰、灰、灰。その光景の全てを目に焼き付けること、それだけが、哀れな娘に残された最後の悪足掻きであった。惨めな娘に許された唯一の存在理由であった。
 娘は駆け出す。紙切れの束は濃い煙へと姿を変えていた。その中に飛び込み、煙の一部となる。大量の恋文につづられた文字の一つ一つが、娘の魂に秘められた激しい想いが、立ち昇る煙を黒く黒く染め上げた。それは情念の塊であった。黒い煙は、外道丸を足元から頭の上まで覆い隠した。息をすることもできず慌てて走り出す外道丸だったが、煙は彼の体を捕らえて離さない。朦朧とする意識の中で、外道丸は女の声を聞いた。声は、何故、何故、と恨みがましくそればかり繰り返した。その恨み言に対してなんの返答もできないでいるうちに、外道丸の意識は遠のき、そして気を失った。
 外道丸を包み込んでいた黒い塊は、次第にその色を失い、一条の薄煙となって、やがて天に消えていった。そして山の麓の村では、二日前、巨木の根元で見つかった若い娘の葬儀が、しめやかに執り行われていた。

※この度、掲載紙が廃刊となりました。無念ですが、本作品を打ち切りとさせていただきます。

前へ戻る

TOPへ戻る
inserted by FC2 system